約40年前の留学物語。教授が学生に留学を進める理由とは【教職員インタビュー第3弾 政治経済学部教授 武田巧先生 Part 1】
Part 1 武田巧先生のお人柄、留学経験
1. 実は我らが明治大学出身の大先輩、教授の若き大学生活
2. 留学を決意。必死に働いた大学4年生
3. 知らなかった。アメリカの大学はこんなに素晴らしかったなんて。
4.だから、留学に価値がある。先生が留学で見つけたものとは。
ニューヨーク (イメージ)
みなさん。だいぶ期間があきましたが、教職員インタビューの第3弾です!
記事は2回に分かれており、今回は、政治経済学部教授の武田巧先生にお話を伺います。
ちなみに次回は、先生から明治大学の国際化についてのお話を伺います。
【武田先生の紹介】
1.実は我らが明治大学出身の大先輩、教授の若き大学生活
中山:さっそくですが、先生がどのようなお人柄かをみなさんに知ってもらうために、先生の学生生活からお話しいただければと思います。
武田:私は、明治大学のOBでして。1977年4月に明治大学商学部商学科に入学しました。実は、1年からESSという英語部に入部し、結構活躍していたのかな。スピーチコンテストで準優勝と優勝をしたり、所属したドラマセクションでは米軍基地でも公演したりしました。
中:そうだったんですか!?明治OBと聞くと、一気に距離が近づいた気がします。
武:そう、もっと若くて痩せていて髪があった時代です。3年次はESS活動の集大成として3つの目標を立てました。スピーチコンテストでの優勝、4大学英語劇コンテストでの総合優勝と主演男優賞。当時、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」という英語劇で主役を演じていたので、優勝したかった。達成したのは最初の一つだけでした。
2. 留学を決意。必死に働いた大学4年生
中:華やかな学生時代ですね。ESS、ということは留学にも行かれましたか?
武:4年生の時に、ニューヨーク州立大学バッファロー校という大学に1年3か月留学しました。理由を言うと長くなるけど、きっかけは英語力をもっと伸ばしたかったことかな。ESSがひと段落した時に、次何やろうかなと考え、当時は総合商社に行きたかったのと、あと独り立ちしたいっていうのもあって、留学をしようという考えに至りました。
中:なるほど。当時だと、留学をするのは今より情報なども少なく大変そうですが、どうやって留学までこぎつけたのですか?
武:まずは、休学して1年間バイト、バイト、またバイト。3年間ESSに没頭していて、ろくに勉強もしていなかったので、学業成績は相当ひどかった。当然、奨学金など期待できなかった。本当はこんなこと言いたくないけどね。夕方の5時から朝の9時まで某ホテルでルームサービスのアルバイトしていました。チップももらって。年間で250万円も貯めたよ。ある芸能人は必ずいくらくれるとか覚えたね。実は、三浦友和と山口百恵が結婚したときに披露宴の後に宿泊したのがそのホテルで、部屋にお寿司とお茶漬け(雑炊だったかな?)を届けたのを覚えています。
中:芸能人の結婚式まで!?すごい!それにしても、250万円は当時でいうと本当に必死に働かないと手に入らないですよね。
武:そうだね。ついでに家庭教師も2件やっていました。何が辛かったって、当時は1ドル250円の時代だったからね。そして、バイトをしながらどこに行くのかを決めました。場所を決めるポイントはとにかく英語を伸ばせる所。日米教育委員会なんかで資料をたくさん見ました。調べていたら「ニューヨーク州立大学バッファロー校」の英語教育が素晴らしいということが分かった。
中:東海岸ですね。
武:そう。芝居をやっていたので、ブロードウェイは憧れ。でも当時のマンハッタンは治安が最悪。そこで、週末にはマンハッタンに行けて、ニューヨーク州のはずれにある場所を選んだ。カナダに近いことも魅力でした。
ニューヨーク
中:語学留学、といった形でした?
武:初めはね。語学の授業では、英語は勉強していたからレベルは一番上でした。そして、さらに英語を伸ばすには英語でなにかを勉強したほうが良いと思って編入を考えた。その時、自分の留学資金では1年くらいで、単位を明治大学に振り替える制度もなかったから、明治は一旦休学、向こうの大学に編入して、経済学を専攻した。
中:壮大な決断ですね。あちらでの学習は大変でしたか?
武:向こうではとにかく勉強しました。正直、大変だった。単位の話で言うと、編入後に40単位を取りました。それで向こうの大学を卒業できちゃった。成績も信じられないほど良かった。私、実は二重学籍[i]なんですよ。向こうの大学には8月の終わりまでいたけど、明治には同じ年の4月から復学していることになっていて。当時の明治は通年履修が基本だったけれど、前期末の中間試験を受けられなければ、当然単位は取れないでしょ。一度帰国して、履修届(当時はオンラインでの履修登録などなし)を提出し、商学部の先生方に事情を話し、後期からは出席するからと頼みこんで、なんとか明治も卒業できた次第です。当時の先生方には感謝しています。
3. 知らなかった。アメリカの大学はこんなに素晴らしかったなんて。
中:当時は、学習の内容だけでなく、物理的な問題(二重学籍、通年履修)なども留学の壁だったんですね。さて。その経験を経て、商社へ行かず大学教授になったわけですが、そこの経緯はどういったものですか?
武:アメリカの大学教育に涙が出るほど感動したんだよね。当時の日本の大学の授業にはずっと、授業なんて面白くないって思っていて。でもね、向こうの授業は大違い。今は当たり前かもしれないけど、授業の初めにシラバスが配られて、何月何日に何をやる、成績の基準もこれが何%、あれが何%と確認する。ハンディキャップがある人の場合にはノートテーカーが付いたり、点字ブロックの教科書が配布されたりする。そして、課題も何月何日にこれをやるからこれを何ページまで読んでこい、とか。
中:今の日本と比べても、考えられないほどにオープンな評価ですね。
武:そう。そんなの当時の日本にはなかった。しかも、図書館も24時間空いていて。
中:明治大学の10時で長いと思っていましたが、アメリカでは、そんなにも学生が勉強するんですか。
武:いいかい、こんな人たちがたくさんいるんだ。図書館に車で来て、勉強して深夜に帰る。勉強熱心だよね。で、そうなると深夜は図書館から駐車場に行くまでが危ないから「アンチレイプタスクフォース」っていう学生ボランティアがいて。何をするかって、駐車場まで学生たちをエスコートしていた。
中:24時間開放ならではですね。少し深く聞かせていただきますが、それだけ勉強する同級生たちの中で、武田先生は実際どれくらい勉強していましたか?
武:それについてはこんなエピソードが。最初の試験が中級マクロ経済学で必死に勉強して・・・たった28点だったわけ。
中: そのテスト、とてつもなく難しかったんですね…。
武: 私も、もうだめだって思って。そうしたら先生が「おめでとう、お前がトップだ」って言ってくれて。実は、そのテスト30点満点だったんだよね。それすらも分かってなかった状態でテストを受けていて。
中:なんと!!先生、意外とおちゃめですね笑。
武:まぁまぁ。そんな感じで苦労していたなぁ。でも経済学がとにかく好きになった。そのうち、その先生は私に対して「絶対大学院に来い」と。私は、お金が無いです、と答えた。でも先生は、お前の成績だったら1ペニーも払わなくて良いよ、と。
中:え、待ってください。そんなことってありえるんですか。
武:私もそう思ったよ。当時の明治にいたらそんな誘いはありえない話。でも、ここアメリカでは外国人の先生が外国人の学生にそういうことを言ってくれる。凄いなって思った。
学業面でいったら、こんなすごいことも起こってね。計量経済学の試験で1回すごい失敗をしちゃった時があった。他の試験やレポートが重なっちゃって勉強できなくて最終的な成績がAで一番上に届かなかったの。でも、その時も先生が「お前の中間試験とかのほかの成績を見ると、この悪かった試験の成績は統計的におかしい、だから再試験を実施する」って言った。こういった諸々のことに感動して、本来あるべき大学教育ってこういうことなのかと思った。
中:それは、驚き感動ですね。正当な評価と言われればそれまでなのですが、それが体現されているというのが。
武:そう。そこで当時の日本の大学のことを考えると、日本にはまだまだこんな教育制度はないし、この分野でなら自分でも活躍できる道があると思った。ただ、やっぱりアメリカの大学院には生活費の問題で行くことはできず。だから日本に帰ってきて、明治の政経に素晴らしい先生を見つけて。
4.だから、留学に価値がある。先生が留学で見つけたものとは。
中:なるほど。商社マンになる夢から大学教授へ、という流れにはたくさんの感動があったんですね。
武:だから、私は学生に強く留学を奨めるんですよ。自分の人生を変えられる、自分の夢に近づけることが可能になると思うんだね。自分を変えられるチャンスだと思う。とりわけ、大きな夢を持っているのに、上手くいかずに悩んでいる学生であれば、本当に留学させたい。勿論、優秀な学生も。自分の人生を大きく変えられるところが留学の良いところだよね。
中:私は協定留学だった身ですけど、それでも武田先生にタイ留学を進められて人生が変わりましたから、そのお気持ちはすごく分かります[ii]。
武;私の経験をもとに言うと、アメリカは本当に良い教育を実施してくれているから、素晴らしい機会になると思う。自分がアメリカから帰ってきて、大学院時代に留学カウンセラーのバイトを少しやった時に日米の大学の比較について本にまとめたのだけど、なぜ日本の大学は宿題を出さないのか、なぜレポートはコメント付きで返してくれないのか、なぜシラバスがないのか、とかいろんな疑問点を書いて…。とりあえずそれを実現する形で今までやってきた感じかな。
中:日本にいると当たり前の視点ですが、疑問に上げると多いですね…。日本の課題…。
ほかにも問題はあるんですか?
武:授業アンケートなどは明治でもやるけど、アメリカの大学だとアンケートで先生の給料に差が出るよ。評価の高い先生は表彰されたり、給料が上がったり。逆に評価の低い先生は教授としての特訓を受ける。それに比べると、明治大学のアンケートは活かしきれているとは言えない。給料に差をつけたりすると、色々な問題が出てきて難しいしね。まあでも、少しは本に書いた疑問たちは実現しているのかな。でも相変わらず期末試験とかは返ってこないよね。
中:それは未だに疑問です。なんでAだったのか、Cだったのか、いまいちわからない分GPAの扱いも日本は雑ですしね。
武:そう、採点・評価基準が分からない、そういうのは変えていきたい。あと日本の大学は学部ごとで入試するよね。でもアメリカは大学自体の入試をする。
中:え、どういうことですか?
武:大学に入って自分の興味のある分野を選んで授業を取って、3年生に上がる頃に、じゃあ商学部に入ろう、文学部に入ろうなどと決める。なおかつ文学部と工学部、プラスで経済学、などとダブルメジャー、トリプルメジャーも可能。色々勉強してから学部に入る方がスムーズでそういうあり方が良いなと思った。そんな風に日本の大学を変えることに貢献できたらな、かっこいいなぁ!と思うね。
中:先生は現在60歳ですが、まだまだ夢は大きいですね。留学を通して大学の仕組みに問題を呈し、自ら変えていこうとしている姿が素敵です。
さて、今回は先生のお話を中心に聞いていきました。とんでもないエピソード、たくさん出てきましたね(笑)。もっと聞きたいですが、次は明治大学の国際化についてのお話です。お楽しみに!
[i] 二重学籍…先生の場合、明治大学の学生であるのと同時期にアメリカの大学生でもあった。本当は、当時は禁止されていたとのこと。
[ii] 詳しくは、学生インタビュー第一弾を見てね!
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