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教授命名「英語克服プログラム」とは?あの副学長の留学生活記!【教職員インタビュー#4.1】

【教職員インタビュー第4弾 明治大学 副学長 大六野耕作教授】

  1. 学生運動全盛期の直後。1970年代の明治大学。

  2. 教授の学生生活。学校に行っていたのは4週間…!!?

  3. 教授、留学を決意。バイトで50万円貯めた、それでも… 

  4. ここだけの話、留学前の英語力は?教授の英語学習法。

みなさん、こんにちは!

今回は、明治大学副学長、明治大学の国際化に向けて走り続ける大六野耕作先生にお話を伺います!たくさんお話を頂いたので、今回は3部制の超大作。

第1部は、大六野先生の学生生活から、留学先に行くところまで。

1.学生運動全盛期の直後。1970年代の明治大学。

中山:まずは、先生の学生生活についてお話お願いします。

大六野教授:私が明治大学に入学したのは1972年、40年以上前ですね。まだ20年くらい前のことに感じますが。みなさん、40年前の学生生活を想像できますか?

中:正直、今と違う、ということしか…。

大:当時は、学生運動が盛ん「だった」時期です。1968年が、世界各国で学生運動が盛り上がった年。例えば、ベトナム戦争がずっと継続していて、学生を中心に反戦運動が世界中で繰り広げられて。また、1950-1960年代後半はヨーロッパや日本が急速に経済成長している時代だった。だから、産業化を支える能力の高い人材を生むために、大学を拡大していた時代だった。

中:今では想像できない、過激な時代ですね。

大:過激か?過激というか,社会が動いているという感じ。経済が拡大し,大学進学者が増える一方で,受け皿となる大学の定員が追いつかなかった。1960年199万人だった18歳人口は,1968年には250万人,私が入学した1972年でも174万人(現在は118万人)。進学率も10.3%から21.4%,29.8%と上がっていった。だから,大学の定員もどんどん増やし、とにかく戦後の経済発展を支える人間を作る必要があった。でも、追いつかなくて、明治大学など主要な大学では、平均して定員の1.4倍から1.5倍の学生を入学させていたんです。

中:全員が来たら、絶対に入れないですね。今でもぎゅうぎゅうなのに。

大:そう。だから全員が学校に来ないことを前提に、授業が行われていた。真面目に行くと教室に入れない。就職も東大をトップに,旧帝大と早慶、その他大学という暗黙の順番があるという感じでしたね。就職の指定校制度(大手企業が使用する大学を指定する)なんてのもあったかな。今とは全然違いますね。一部上場の企業に入ることも今のように簡単でなかった。

中:昔ってバブルでいいことばかりだと思っていましたが、なかなか学生としては大変な時期だったんですね…。

大:なんだよ,この社会は!という気持ちも出てくるでしょう?それが学生の不満になって学生運動に火をつけた、という面もあります。また,戦前にはもどしてはいけないという気持ちもまだ強く,政治的な時代でもありましたね。1952年に最初の日米安全保障条約が結ばれましたよね。60年,70年に改定があってこれに対する反対運動も盛んだった。そうした気持ちが合わさって、いろいろな種類の学生運動が生じてきた。それが1970年代かな〜。

中:では、先生もこの学生運動に参加されていたのですか?

大:影響は受けていたけれど,直接には参加してはいません。さっき「だった」と言ったのは、私が入学したのが1972年には、大きな政治的課題は既に終わっていたという感じで,ただ,1973年のオイルショックでいきなり学費が倍になり,経済の低迷で就職難が生じた。そんな中で,学費値上げ阻止闘争という形で学生運動は続いていましたが,学生運動は政治的には分裂して,次第に過激化していったんです。

中:過激化、というと?

大:戦後の高度経済成長で日本の経済も復興して,70年代に入る頃には生活は安定し大体のものは手に入る時代になった。経済が安定していくと社会全体としての政治的関心は薄れていって、社会から孤立した学生運動の中で政治路線をめぐる対立が過激化し,各セクト(路線の違う団体)同士が暴力で争うようになった。

中:当時の学生は、元気がよかったんですね。今ではどこにいっても想像つかないです…。

2.教授の学生生活。学校に行っていたのは4週間…!!?

中:そんな激動の余韻の中で、大六野先生はどのような学生生活を送っていたのですか?

大:昔の明治大学は良かった?ですよ(笑)。4月に入学すると、7月の第1週まで授業は終了。7月第2週にテストが終わり、次に授業が始まるのは10月1日。

中:夏休みが3か月、春学期(ほぼ休み)が3か月…。

大:いい時代だろう?(笑)。1972年入学の私の場合,1年の夏休みが明けて大学へ行くと、大学が閉まっていたわけ。学費値上げ反対闘争が激しくて授業ができなかったんだね。だから10月以降も授業は一度もなく,全教科レポートを出して成績がついた。

中:先生、大学全然行ってないじゃないですか!(笑)。

大:それで単位になる時代だった。次の年は授業があって、ちゃんと大学に行こうと思っていただけれど,1年生の10月からずっと休みでしょ、だから、大学に行かないくせがついてしまって。

中:1年生の時の習慣は恐ろしいですね。

大:2年生の時は、試験の時しか大学に行っていない。2年生になってから大学に行ったのは全部で4週間ぐらいかな。そんな状況の中で、「一体,俺は何をやっているんだ」と思ったわけ。

中:そこから、留学ですか?

大:そう。とりあえず海外に行こうと決めた。行き先はどこでもよかったのだけれど,結局、アメリカに留学することに決めた。アメリカは大きな国だし,英語ができるようになれば「食いっぱぐれ」はないかも,と思ったわけ。それで、UCバークレーのエクステンションに3ターム(9か月)行きました。

中:今、明治大学でも行けますよね、UCバークレー!先生の母校だったんですね。

UCバークレー

3.教授、留学を決意。バイトで50万円貯めた、それでも…

大:そこで、英語の勉強とアメリカ史,アメリカのビジネスをやりました。アメリカ史といっても、当時1970年ですからまだ100年くらいの歴史。だけど、教科書は10cmくらいの厚みがあって。

中:え、そんなにも何が書いてあったんですか…?

大:アメリカの,ありとあらゆるところで起こった、小さなことがたくさん。アメリカ人にも分からないほど細かいことがね。

中:うーん、広さで歴史の浅さをカバーしきったんですね(笑)。

話は変わりますが、留学費用はどれくらいでした?

大:その当時,学費だけでエクステンションでも35万円ぐらいしたんじゃないかな。しかも,1ドル,300円の時代でした。

中:当時の感覚だと高いんでしょうね。どうやってお金を工面したんですか?

大:そりゃ高いですよよ。当時の国鉄(現在JR)の初乗り運賃が30円の時代ですから。そこで,水道工事のバイトで稼ぎました。最初は穴掘りから。水道管をひくための溝を,毎日掘って。初乗り運賃が30円の時代に毎日5000円くれたんですよ。

中:それはすごいですね。

大:そう。しかも、経験を積むと仕事によっては日当10000円ぐらいもらえて、50万円ぐらい貯めたかな。

中:すさまじい体力・精神力ですね…。総額50万円で足りました?

大:いやいや、学費等を払った残りの15万(当時のレートで500ドル)で9か月を過ごさないけなかった。ほぼ無理な話だよね。だから、アメリカにいってもアルバイトをしてしのぎました。

中:情熱(必死さ?)がすごいですね。ひと月約50ドルの予算で旅立とうと思えるのが。

4.ここだけの話、留学前の英語力は?先生の英語学習法。

中:時間軸が前後しますが、そもそも先生は英語が達者でしたか?

大:私は高校の時、英語の成績は5段階評価でずっと2だったんですよ。自慢しちゃいけないな(笑)。

中:え!?大六野先生が??今はこんなに英語を使いこなしているのに…。

大:英語が嫌いなわけではなかったからね。ただ、テストができなかった。だから、問題がおかしいと思っていた(笑)。英訳はまだしも和訳なんて、英語の試験じゃないでしょ。あれは,国語の試験ですよ。アクセントの位置を問うなんて意味がない。普段喋ってないんだもの,頭でアクセントの位置なんか覚えたって,実際に話すときには役に立たない。この単語は第二音節にアクセントがあるからなんて考えていたら,話なんかできないですよ。

中:うーん、言われてみればそうでしょうか。

大:僕らの頃の英語教育は「英語のスキルを教える」のではなくて,「英語」のテキストを読みながら,文学・歴史を勉強するという感じ。それはそれですごく価値があると思うけど、それを「英語教育」というのは変だと思っていた。

中:なるほど。ということは、留学前に相当英語を勉強する必要があったのでは?

大:そう。だから、留学に行く前には,NHKのラジオ英会話講座を聞いていました。毎朝、録音しておいて,水道工事から帰ってきて聞いていたから,これで大丈夫だと思ったんだね。ところが、あっちに行くと何も聞こえない(笑)。

中:昔からの日本人あるあるですね。留学でショックを受けるのは。

大:だから、留学先で「英語克服プログラム」(私の命名)をやった。「ミシガンメソッド」というのがあって、同じ文章を何度も,何度も聞いて、発音して、英語を身に着けるというやつ。毎日,バークレーのどの建物だったかは忘れたけれど,Law Schoolの近くにあった建物の地下にあったLanguage Labで毎日を1人やっていた。

中:教材だけで、身につきました?

大:いや、それだけじゃ・・・発音はよくなったけれど,英語は誰かと話してなんぼですから。そこで,バークレーのインターナショナルハウスの食堂で、人がよさそうな奴を選んで、「Hi!」と話しかけて。向こうは「どこから来た?」みたいに言うわけ。そのぐらいなら分かるんだけど、でもそれから先は何言っているか分からない。

中:大変そうですね(笑)。でも、実践も同時並行でやれたのはいいですね。

大:そこがポイントだよね。結局、一生懸命教材をやっても、機械とは話せないのでスピーキングは上達しない。英語は、対話する中で覚えてなんぼです。毎日そういう感じで英語を話していましたね。でも、これもいい奴がいたから続いたんですよ。すごく心配してくれるバークレーの学生がいたんです。

中:ラッキーでしたね。日々、上達を感じる日々でしたか?

大:いやいや,そうはいかなかった。毎日,毎日「明日は帰ろう、明後日は帰ろうか」って思っていました。ほとんど絶望状態でした。銀行口座一つ作るのでも大変。Cheking AccountやらSaving Accountって聞かれても,そんな違いがあることさえ知らなかったから,音は聞こえていも全然分からなかった。とりあえず笑いながら“yes”を連発して、なんとか口座だけは無事にできたけど。

中:口座は、行ってすぐ作らないとだから大変でしたね。

大:そう、大変だった。レストランに行くのでも、注文は簡単。でも聞き返されるとアウト。当時、分からない時はニコッと笑って“Yes”, って言うことにしていて。でも、その時はまずかった。実は、“Anything else?”と聞かれていたから、もう、崩壊の道へまっしぐら。

中:店員さんも「What?」って感じなんでしょうね(笑)。

大:そう、むこうも怒るわけよ。だから、いつも代金だけ払って、ハンバーガー握って、ピーポーズ・パーク(当時は,ベトナム戦争の影響でホーチミン・パークと呼ばれていた)という公園へ行って泣きながら食べていた。もう,こりゃだめだ、飯食うのにこんなに苦労するんじゃどうしようもないって・・・。

中:当時はすごく辛かったでしょうね。今の留学と違って周りに日本人も少ないですし。

大:ただ救いはあった。バークレーのSather Gateから真っすぐ伸びているテレグラフ・アベニューの端っこに小さな中華料理屋があって、そこの経営者の中国人老夫婦は,英語はよくできなかった。僕のほうがいくらかましなぐらいで。毎週1回だけ5ドル(1500円)のエビチャーハンを食べるのだけど,金欠の身としてはきつかった。でもそこへ行くと,これでもアメリカで生きていけるんだって。「そのうちどうにかなるんじゃないか」なと思って勇気づけられていました。

さて、大六野先生は留学生活を乗り越えられるのか。

次回は、留学生活後半をお届けします。お楽しみに!


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