留学後、先生が歩んだ道とは?大六野教授留学記第2弾!【教職員インタビュー#4.2】
みなさん、こんにちは!
今回は、大六野教授へのインタビュー第2弾。
英語で会話が続く、というのはやはり英語が話せると言えるポイントですね。たくさんの苦労をされた大六野先生ですが、どのような続きがあるのでしょうか。
1. 留学生活後半編。上達には、やっぱり〇〇が一番…?
2. 留学から帰り、大学院へ。今の大六野先生があるのは…
3. 学生生活を振り返って。教授が大事にしてきたこと。
大六野耕作教授
1.留学生活後半編。上達には、やっぱり〇〇が一番…?
大六野:それから3か月がたったある日。さっきの「いい奴」と寮の階段を一緒に上がっていた時のこと。今まで聞こえなかった英語が、全部聞こえる。ありゃ、言っていることが全部分かるぞと。
そこからはあっという間。最初300点ほどだったTOEFLのペーパーテスト(670点満点)が、9か月の留学が終わった時には630点でした。ほぼトップ5%ぐらいの点数。
中:言葉では表せない嬉しさですね…。積み重ねて積み重ねて、やっとのことで。
大:そして、聞こえるようになってからはもっと貪欲になったね。分からない言葉は手帳に全部書いた。また「いい奴」が手伝ってくれたんだけど、こういう時には使うけど、こういう時には使わないみたいなことまで教えてくれて。そして、その表現はその日のうちに使っちゃう。インターナショナルハウスの夕食などでね。するともう忘れない。抽象的な単語も、日常に放り込むと忘れないよね。
中:そうですね。知っているから使っているに変わることは大きな変化ですね。
大:これを積み重ねているうちに,そこそこしゃべれるようになった。でも、やっぱり、上達には恋が一番だったかな…。
中:!!!恋、されていたんですか?(笑)
大:私にだって若い時がありましたから。彼女のおかげで英語は伸びましたね。まあ、大変なこともあったけど。当時は、お金がないから着るものも大体ジーンズとTシャツ。靴も重たいスニーカーしかなかった。とある土砂降りの日に、彼女から電話がかかってきた。「今から会いたい」って。1つしかないそのスニーカーばかりで。履くのも気持ち悪いし、裸足で会いに行きました。夜の10時頃だったかな。
中:えーっ!?私が彼女だったら、さすがに裸足は嫌です…。(笑)
大:若いから、何でもありだよ。その後は、喫茶店で朝まで話をした。喫茶店が閉まったら、こっちへ行ったり、あっちへ行ったり。つまり、やっぱり英語はそういうのが一番早く覚えられますね。
中:楽しく英語が覚えられて何よりですね(笑)。でも、恋が上達にいい話はよく聞きますが、どうしてでしょう。
大:やっぱり非常にパーソナルな会話だから、新聞などに出てくる以外の表現がいっぱいあるじゃないですか。微妙なニュアンスと言いますか、恋愛でしか覚えられない表現も沢山ある。
2.留学から帰り、大学院へ。今の大六野先生があるのは…
大:トータルで考えて、アメリカは面白い国でしたね。人間関係の在り方一つとっても日本とは全然違って。日本はあまりにも人間関係が密で、人のことばかり気にしなきゃいけないから、日本を嫌いになったこともありますよ。
中:確かに、一度アメリカの文化に触れると日本は堅苦しいかもしれませんね。
大:親はこう思っているだろう、友達はああ思っているだろう、誰誰は俺をどう見ている、とか。就活でもあるでしょう、「俺三井物産なんだけど、お前どこ…?」みたいな。本当に嫌ですね。一方、アメリカ人は‘going my way’ なんだよな、良くも悪くも。
中:具体的にどういう場面でそう感じましたか?
大:大学に入学したての18,19才の子が「私は○○になるために、この学科に来た」ってはっきり言う。でも、にそうなった友人は10%ほど。そういう文化(?)なんだよね。自分の生き方をはっきり意識しないといけない、という文化。
中:日本とはずいぶん違いますね。最近は日本にもそういう子も増えてきましたが…。
大:一層アメリカへの憧れが強くなって、明治をやめてバークレーに入ろうかとも思いましたよ。英語の条件はクリアしていたから。でも金銭面がね。バークレーの年間授業料(out of state)は2,130ドル(当時の為替換算で約60万円)明治大学の4倍。学費だけならまだ何とかなるけど、生活費まで考えると難しいかなと思って。明治に戻ったんです。
中:苦渋の決断でしたね。
大:その反動もあって、日本を嫌いになって。なんで日本はこんな社会なのかと。そこで、アメリカの社会史を調べたのね。
中:アメリカの社会史…?話のつながりが見えないのですが。
大:アメリカでは19世紀の半ばに、Homestead Actというのができて,西部未開拓地を開拓した人には、土地の所有権を与えるという法律ができたんですよ。すると、都市で食べていけない人がどんどん西に移って行った。こういう開拓者精神、自分のことは自分で守る、という気概。これがあるから、アメリカの憲法修正第2条に「自分の身は自分で守るために銃を持って良い」という項目がある。まずは自立というか、生き残るというスピリットがアメリカを支える一つの大きな柱になっているんでしょうね。平等の意識も強いが、それ以上に自由の意識が強い。だから人との関係はまず個人から考える。
中:アメリカ史の観点から見ると、文化が紐解けるんですね。「自由の国」は「自立を求められる国」でもあると。
大:だから、アメリカではコミュニティも自分たちで作る物で、そこでのルールは自分たちが決める、という思いが非常に強い。日本は逆で、既存のコミュニティに入るでしょう。認められる否かは、相手次第という忖度の世界。
中:確かに、既存のコミュニティに入る、という感覚はずっとありますね。
大:それが、日本を安全にしており、同時に人を縛っている要因でもあるね。そして、僕も当時は縛っているほうばかりが見えてしまって嫌悪感が増したね。
中:でも、そこまで日本が嫌で、先生ほどの実力があれば、海外で働くという選択肢もあったのでは?
大:実は、留学中に旅行代理店でアルバイトしていてね、そこから「いつでも帰って来い」と言われていた。日本の会社に就職することも全然考えていなかった。当時は、海外の駐在員が一番良いなと思っていたわけ。駐在員として長く滞在すれば、その地域や国独特の感覚が身につくし。英語は当然ネイティブに近づくでしょう。のんびり,やれるじゃないかと。とにかく日本から離れることを望んでいたね、当時は。
中:すると、卒業後はアメリカに?
大:それが・・・当時のゼミの先生に話したら、「大学院に行って勉強したほうがいいよ、そう考えているなら」って。で、それだったら法律じゃなくて政治学かな、なんて思い、会ったこともなかった、岡野先生という教授の所を受験して。受けたら受かっちゃった。(笑)
中:(笑)。急展開ですね。先生の政治経済学部への関わりがここから始まったなんて。
大:そんなこんなで大学院に入って、修士を2年やりました。でも、まだ就職したくないんだよね。やはり日本の企業では働きたくない。なので、博士に行きました。それも終わって、もうないよね、学生生活が終わっちゃった(笑)。
中:一気に進みましたね。そこから、頑張れば海外への道があったのでは?
大:実は、フルブライトという奨学金制度に挑戦したんです。これしかないと思って。
でも、各分野で1人ずつしか採用がない。僕は政治学。応募者のなかでTOEFLは一番良かったはず。でも行ってみたら、最終面接に残った5人中2人が東大、あとは早稲田と慶応。これは,だめだと思ったね。学歴社会だから当時は。面接官も東大出身で、絶対無理やん,これって。予想どおり、奨学生も補欠も東大。
中:まあ、そうなりますよね。今は、トビタテなどで学歴関係なく、奨学金がもらえる機会が増えただけでも感謝しないといけないですね。
大:その通りですよ。そうしていると、当時の指導教授から、助手にならないかと誘われて。ぜひ受けますと返答した。テストは2週間後、科目は英語とフランス語と論文と言われて、うそでしょ!?と思った。問題はフランス語。どうやったら2週間で、第2外国語でしかやっていないフランス語を和訳できるようになるか。ただ、ラッキーなことに「英語からフランス語へ」(白水社)という小さな本があって,フランス語を全部英語に直して、フランス語の原文→英訳→和訳、と乗り越えたわけ。
中:ここでも、先生のパワーが垣間見えますね(笑)。2週間で何とかするなんて、超人ですよ。先生のそのやる気や体力は、どこから来ているのですか?
3.学生生活を振り返って。教授が大事にしてきたこと。
大:結局私は、ずっと、その時に自分が一番やりたいものを選んできただけだね。将来ああなったらどうしようとか、考えてない。それこそ、28歳の時、もう学生はできないと思った時くらいだね、悩んだのは。
中:簡単に言いますが、それってとても勇気がいることではないですか?一番を決められない時もありますし…。
大:動いていれば、なにかチャンスが来る。そこで選択肢ができる、やるかやらないか。あるいは、どちらをやるか。それを選んできただけなんです。来たら断らない、っていうことにして生きてきました。
中:動き続ける、悩まずにやり切る、この2点ができるのは先生のすごさですね。
大:まあ、よい選択肢が来ている点でラッキーと言えばラッキー。悩む間もなく選んじゃったから、休めるわけもなかった。私の場合、大学院は法学から政治学に転学したようなものなので、大学院のゼミ生の会話はまるで外国語。いや、英語よりひどかった、本当。でも、自分が選んだ道。名前に政治学とついている本はみんな読んで、それでも分からない。ゼミ生、頭がおかしいんじゃないかって思った時もある(笑)。だけど、とにかく選んじゃったものはやるしかない,なと思って。
中:そこですよね。普通の人だと、行動する途中で考えちゃう人いるじゃないですか。これを選ばなければ、とか。そういうことは考えなかったですか?
大:人生って、やり直すわけにいかないじゃない。だから、私は「違う選択をしていたらどうだったんだろう」と言われても、そうでない生き方をしてないから、答え得ようがない。おかげさまでそんなに悩むこともなく、生きてきました。
中:確かにそうですね。選んだ道を最良にするほうが、よいやり方ですね。
大:例えば、私は通訳の道も考えようと思えば考えられたと思う。色んな所に呼ばれて私が講演をする時も、登壇者の私より翻訳者の方が謝礼が高いんだよね。だったらそれで食べていけるじゃない。何が良いのかなんて分からないよね。就職だって私に言わせると、組織に依存しなくても食べていけるだけのスキルを身につけていれば、怖いものなんてない。
中:本来大学は、社会で生きていくためのスキルや専門性を身につけるための場所、という側面もありますしね。
大:そのスキルは、語学力、ウェブの技術、マネジメント能力が高いとか、何でも良い。ただ、人にはできないような、あの人に頼めば大丈夫だな、という強みがあれば、心配いらない。皆さんに、そうしなさいとは言わないけど。でも、皆さんが大丈夫だと思っている安心は、実は雲でできた船(泥舟より危ない)かもしれない、ということは覚えておいてほしいな。
中:時代も変わっているので、環境の変化に動じないスキルや知識をどう身につけるかが大切なんですね。
大:つまり、分からないものに頼るより、自分でマネージできる範囲内で自分の安全を守れる強みを持っていたほうがいいんじゃないかと私は思います。
いかがでしたか?
今の大六野教授があるのは、多くの選択と挑戦を続けてきた結果なんですね。
さて、最後の第3弾では、大六野教授から見た明治大学の国際化についてお聞きします!
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